[2月]
南風原国民学校の沖縄陸軍病院で看護訓練始まる。
[3/23]
深夜、学校から沖縄陸軍病院へ動員される。動員後、生徒たちは本部指揮班、炊事班、看護班、作業班に編成され、壕堀りや衛生材料の運搬に従事する。
[3/28]
一高女3・4年生16名が津嘉山経理部へ配置替えとなる。
[3/29]
陸軍病院三角兵舎で卒業式が行われる。
[4/19]
一高女3年生21名が一日橋分室へ配置替え。その後にその中から識名分室へ10名配置替えとなる。後、2名合流。
[4月中旬]
生徒たちは本部、第一外科、第二外科、第三外科に分散配置され、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などに従事。
[4/28]
師範生14名が玉城村の糸数分室へ配置替えとなる。
[5/25]
陸軍病院、南部へ撤退。撤退までに8名の生徒が死亡、2名が重傷、撤退の途中1名死亡。
[5/26]
摩文仁村伊原へ到着。山城本部壕、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕、伊原第三外科壕、伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕)へ分散配置する。
[5/31]
津嘉山経理部、南部へ撤退。
[6/11]
一日橋・識名分室の生徒、伊原第三外科壕へ合流する。
[6/14]
山城本部壕に直撃弾を受け、伝令に来た生徒2名死亡。
[6/15]
米軍の侵攻により山城本部壕の生徒は、伊原第三外科壕と太田壕へ移動。同日、波平第一外科壕の生徒の一部が伊原第一外科壕へ移動。
[6/17]
伊原第一外科壕に至近弾が炸裂。3名の生徒が死亡したほか、多くの負傷者が出る。
[6/18]
糸洲第二外科壕が米軍の馬乗り攻撃を受ける。夜、生徒の多くは伊原第一外科壕へ移動する。その夜、各壕の生徒に解散命令下る。南部撤退から解散命令までに8名の生徒が死亡。
[6/19]
朝、米軍が伊原第三外科壕にガス弾投下。4名の教師と38名の生徒が死亡。動員された222名の生徒のうち、123名が死亡。そのうち107名は解散命令後死亡した。