第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年の4月、沖縄に米軍が上陸し、熾烈な地上戦が展開されました。そんな中、当時沖縄にあった21の男女中等学校から生徒たちが動員され、戦場に送られたのです。女子学徒は15歳から19歳で、主に陸軍病院等で看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生は「鉄血勤皇隊」(物資輸送・橋の補修等)に、下級生は「逓信隊」(電線の修復・電報の配達等)に編成されました。
当時、真和志村安里(現在の那覇市安里)にあった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校からは、生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員されました。そしてそのうち136名が戦場で命を落としたのです。両校から動員された生徒・教師たちを戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになりました。
沖縄師範学校女子部は教員養成を目的とした学校で、修業年限は予科3年、本科2年の5年。国民学校、国民学校高等科を経て受験・進学し予科から学ぶ方法と、高等女学校を卒業して受験し、本科に進学する方法がありました。
沖縄県立第一高等女学校は「知性あふれる教養豊かな女性の育成」を目標として設立され、修業年限は4年、国民学校卒業後受験して進学しました。
両校は1916(大正5)年に財政的な理由で併置校となり、学園内の施設を共有し、同じ先生に学ぶという姉妹校のような関係になりました。約8,000坪の敷地には講堂、体育館、図書館、農場、同窓会館、寄宿舎、当時沖縄で唯一のプールもありました。全県下から難関を突破して集まった両校の生徒たちは、恵まれた教育環境の中で笑顔のあふれる学園生活を送っていましたが、沖縄戦で米軍の爆撃を受けて全てが焼失し、廃校となりました。
●“ひめゆり”の由来
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校には、それぞれ校友会誌があり、一高女は「乙姫」、師範は「白百合」と名づけられていました。両校が併置された際、校友会誌もひとつになり、両方の名前を合わせて「姫百合」と名づけられました。ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったのは戦後です。
終戦の翌年(1946年)の1月、米軍の命令により旧真和志村(現在の那覇市真和志地区)の人々が糸満市米須に移動させられてきました。当時の真和志村の村長はひめゆり学徒の遺族でもあった金城和信氏でした。真和志村民らは金城氏の呼びかけで遺骨の収集を始め、それらの遺骨を納骨するために2月に「魂魄の塔」を建立しました。戦後初の慰霊の塔でした。
同年4月5日、真和志村民らは、沖縄戦末期米軍のガス弾攻撃を受け、多くのひめゆり学徒や陸軍病院関係者が亡くなった伊原第三外科壕の上にも「ひめゆりの塔」を建立。建立から2日後の4月7日に第1回慰霊祭がとり行われ、学徒隊の引率教師だった仲宗根政善先生が「いはまくら かたくもあらむ やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」のうたを霊前に捧げました。9日には摩文仁に男子学徒を祀る「健児の塔」も建立し、魂魄の塔・ひめゆりの塔・健児の塔と合わせて平和を希求する3つの慰霊の塔としました。
女師・一高女は沖縄戦で破壊され廃校となりましたが、同窓生たちは、戦後いち早く同窓会を再結成しました。同窓会の名前は戦前の校友会誌の名前をとって「ひめゆり同窓会」と名づけられました。戦後が落ち着きを取り戻し始めた1960年に、同窓会は財団法人として認可され、その後「財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会」として活動していくことになります。財団法人としての大きな業績は、「ひめゆり同窓会奨学基金」の設立と、「ひめゆり平和祈念資料館」の創立です。奨学基金は2006年までの23年間で25人の女子学生に付与され、ひめゆり平和祈念資料館は開館以来、平和を発信する様々な取り組みを重ねています。
1983年1月、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示し、戦争の悲惨さを後生に伝えるための資料館を建設しようと、財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会は、資料館建設期成会を設置しました。建設場所の選定、募金活動等による資金作り、展示内容の決定などの準備作業を経て、1989年6月23日、ひめゆりの塔の隣地に「ひめゆり平和祈念資料館」が開館しました。初代館長には、戦争当時引率教師であった仲宗根政善先生が就任しました。
資料館の建物は、ありし日の女師・一高女を模して作られました。また、中庭の美しい花園は、戦場で尊い命を失った少女たちの御霊に捧げられています。
2004年には、戦争体験者が年々少なくなっていく中、若い世代に戦争の実態をより分かりやすく伝えるために、全面的な展示改装を行い、さらに平和への思いを未来へつないでいくための「平和への広場」を増築しました
[1896年]
女子講習科(後の沖縄師範学校女子部:通称女師)、首里の師範学校内に設置。
[1900年]
私立沖縄高等女学校(後の沖縄県立第一高等女学校:通称一高女)設立。
[1916年]
女師と一高女が併置校となる。
[1927年]
女師・一高女の校友会誌が合併し、「姫百合」として発刊。
[1945年]
沖縄戦
沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校、沖縄戦により灰燼に帰し、廃校となる。
[1946年]
「ひめゆりの塔」建立。第1回ひめゆりの塔慰霊祭挙行。
仲宗根政善詠歌の「いわまくら」の歌碑建立。
[1948年]
「ひめゆり同窓会」再結成。同窓生によって、同窓会館の敷地確保の努力始まる。
[1951年]
ハワイの二世儀間真一氏、ひめゆりの塔の敷地購入資金を寄贈。
仲宗根政善編著『沖縄の悲劇―ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』刊行。
[1953年]
映画「ひめゆりの塔」上映。
[1960年]
「沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会」として財団法人として申請、認可される。
[1968年]
同窓会館を建設。
[1972年]
日本復帰
[1982年]
ひめゆり同窓会総会で、「ひめゆり記念館」の建設を決定。
[1983年]
沖縄県人材育成財団へ基金を委託し「ひめゆり同窓会奨学基金」を設立。
[1989年]
ひめゆり平和祈念資料館開館
[1990年]
開館1周年記念「ひめゆりの青春展」を開催。
[1991年]
開館2周年イベント「戦跡めぐりーひめゆり学徒隊の足跡」を実施。 (以後毎年6回まで実施)
[1994年]
開館5周年記念座談会「次の世代に平和をどう継承していくか」開催
開館5周年映像作品「平和への祈りーひめゆり学徒の証言」制作、上映。
[1995年]
終戦50年
仲宗根政善館長逝去
亡きひめゆり学徒の戦後50年目の仏前供養実施。
[1999年]
開館10周年記念イベント「平和祈念コンサート」開催。
開館10周年記念特別展「沖縄戦の全学徒たち」展開催。
[2001年]
企画展「仲宗根政善―浄魂を抱いた生涯」実施
[2002年]
「女師・一高女跡」碑建立。
[2003年]
企画展「ひめゆり学徒の戦後」開催。
[2004年]
全面リニューアル実施。
[2005年]
企画展「沖縄陸軍病院看護婦たちの沖縄戦」開催。
戦後60年 朗読「平和への祈り~ひめゆりの伝言」開催。